被災地を離れて引き裂かれた心を、主に救われて
葛藤を乗り越え、異動を決めた
韓国・ソウル育ちの私は、世界宣教の夢を持って東京神学大学に留学し、そこで同級生の鈴木淳一神学生と出会って結婚しました。卒業後に伝道者として一緒に派遣された東北の町で、人生で初めて地方ならではの豊かさと楽しさを味わいました。最初の頃は、奥ゆかしく、感情をあまり表さない人々に溶け込めずにいました。しかし、ある時、祈りの中で「自分がよく生きることが大切」と示され、まずは石巻での生活を楽しもうと、英会話サークル、絵画教室、町内会行事などに積極的に参加し始めたことがきっかけで、次第に友人が増えていきました。すると礼拝出席者も、家庭訪問の受け入れ先も増え、閉塞感を感じていた石巻が、安住の地のように思われました。
そのような生活が8年目を迎える頃、いつの間にか教会員たちに甘えている自分を見ました。居心地が良くなって、緊張感を失い、何でも許されるような気がしてきたのです。「このままでいいのか」という問いが生まれました。また、教会の長老たちが健在の今なら、新しい牧師を迎えても、牧師をサポートしつつ教会をさらに発展させられる。しかし、この時期を逃すと、新牧師の招聘は教会にとって大きな負担となるだろう。このまま居続けていいのか、教会のためにも決断すべきなのではないかとの思いが与えられました。
石巻を離れる決意をするまでには、夫婦で何度も祈り、葛藤を乗り越える必要がありました。教会の方々に伝えると、最初は非常に驚かれましたが、最終的には私たちの決断を神さまによるものと理解し、祝福してくれました。
悲惨な現実が聖書の言葉とぶつかる
震災当日、私は東北教区の活動を終え、夫と一緒に仙台市街地にいました。激しい揺れの後、何としても教会へ戻らねばと車を進めたのですが、津波に追われ、途中の避難所に3泊し、石巻に戻ったのは震災から4日目。幸いなことに、高台にある教会は無事でした。
震災後の数週間、教会員の安否を確認したり、届いた物資を仕分けして配ったり、昼間はとにかく働きに働きました。でも夜になると、ただただ涙がこぼれるばかり。祈りの言葉も浮かばない。聖書を開いても、その言葉が現実とぶつかってしまう。一面の破壊、悲しみ、苦しみに対する答えを、どこにも見つけられませんでした。
しかし、後任の先生も来てくださり、また、少しずつ町が落ち着きを取り戻し始めていたので、後ろ髪をひかれる思いで、春からの赴任先だった大阪に、4月19日に旅立ちました。
我々の試練の中、共におられる主イエス
ところが、大阪に着いてから急に気持ちが沈み始めました。最初は単なる疲れかと思っていたのですが、やがて牧師としての自信を失い、疲れ果て、祈りの言葉といえば「主の御元に行きたい、ただ深く永遠に眠りたい」と繰り返すばかりでした。
そんなある日、一人横になっていたら、気配を感じたのです。津波に流されたようなボロボロの姿で、そしてただ、私の横にたたずんでいらっしゃる方がいる。夢とは違う、不思議な感覚でした。十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれるイエスさまでした。ふと、心を疲れさせていた複雑な固いものが薄らいでいくのを感じました。無力でも生きていることには意味がある、私は生かされていると思えたのです。
しばらくして、私は、自分の震災体験を初めて教会の人々と分かち合うことができました。ようやくその時、「神さまが、私をここに遣わされた」と確信しました。そして、この試練の意味をすべて知ることも理解することはできませんが、たとえ答えがなくても、共におられる主にすべてを委ねて歩んでいきたいと思いました。大阪での新しい仲間と共に、そして離れていても、私たちは石巻と共にあります。
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