私は福島県出身ですので、2011年4月から福島県いわき市の磐城教会に赴任することが決まった時から、故郷に福音を伝える喜びに期待をふくらませていました。ですから、大震災に続いて原発事故が起きた時も、当初は磐城教会と連絡がとれずに心配しましたが、赴任することに迷いはありませんでした。3月末にライフラインが回復したことを確認し、31日、高速バスを使って、前任地の藤沢(神奈川県)から磐城教会に向かいました。
磐城教会の建物には大きな被害はなく、原子力発電所からは南へ43.5km
と微妙な距離でした。しかし、教会のコミュニティは深く傷ついていました。震災直後は、流通が寸断されていたため、食糧などの物資が途絶える恐怖の中、人々は放射性物質の情報に戸惑い、避難すべきか、留まるべきかなど、本音で話すことができなくなっていました。葛藤の内に教会は散らされ、礼拝を行うことができませんでした。
私を迎えてくださった教会員の皆さんは、落ち着いているように見受けられました。しかし、実は必死に立っていたのでしょう。地域にキリスト者は多くはありません。家族の中で自分だけという人もいます。キリスト者として絶望する姿は見せられない、信仰を証ししなければと思うあまり、抱えている不安や悩み、悲しみを言葉にすることができずにいるようでした。礼拝とは、そういった言葉にできない思いを吸収し、拭い取る営みなのではないでしょうか。
4月最初の礼拝には、大きなプレッシャーを感じました。初めは、希望の言葉を、慰めや励ましを語らねばならないと思っていたのですが、黙想の中で示されたのは、学生時代に専攻し、繰り返し読んできた旧約聖書のイザヤ書の40〜66章や詩編の御言葉でした。平和がないのに平和を語ってもむなしい(エレミヤ6:14)、偽預言者になってはいけないと思いました。教会には希望も大切ですが、その時は、御言葉によって共に嘆くことが必要だったのです。
礼拝で御言葉に心を合わせる時、私自身、教会の皆さんと共に御言葉を経験しました。具体的に何がどう変わったとは言えないのですが、やはりこの礼拝が教会員の皆さんにも、私にも救いになりました。
いわき市では避難者のための仮設住宅が作られる一方で、県外へと転出する人もいます。特に放射能に対する捉え方には、家族の年齢層や考え方でも温度差があり、それが人々の容易に口に出せない悩みや痛みの原因となっているように思います。
しかし、礼拝を通して共に嘆く機会を得た教会は、共同体として社会の現状、人々の痛みを受けとめるように
なったと感じます。現在は、併設する幼稚園の園庭の除染を、教会員も職員や園児の保護者と共に進めています。
また、教会は豊かな樹木に囲まれていたのですが、木々に蓄積された放射性物質の、子どもたちへの影響を除去するため、そのうちの多くを伐採することで同意しました。
礼拝で神さまの言葉を受け取り、それを共に分かち合うことを「御言葉の経験」と言いますが、牧師の働きはその営みに奉仕することです。礼拝に集う方々が、本当に御言葉を経験しているのか。準備には苦労も不安も伴いますが、しかし、私の思いを超えて働く神さまの道具として用いられることの喜びを、今、深く感じています。