大住 雄一
一 「福音宣教者」という言葉は 、ヘブライ語では一語で「メバッセール」と言います。日本語にそのまま訳すとわかりにくい。例えばイザヤ書40章9節は、直訳すると「高い山に登れ、シオンの福音宣教者よ、力を振るって声をあげよ、エルサレムの福音宣教者よ。ユダの町々に告げよ」となります。分りにくいので、「福音宣教者」を「福音(良い知らせ)」と「伝える者」に分解し、「シオンの」「エルサレムの」という所有格は「〜に向かって」と理解できるので、「良い知らせをシオンに伝える者よ」「良い知らせをエルサレムに伝える者よ」と訳します。新共同訳もそのように訳しています。しかし所有格は、実は同格とも理解できるので、「高い山に登れ、福音宣教者シオンよ、力を振るって声をあげよ、福音宣教者エルサレムよ。ユダの町々に告げよ」とも理解できます。シオン=エルサレムとユダの町々は伝える者と伝えられる者というように対立的に捕えられることが多い。使徒言行録1章3〜8節を見ると明らかですが、主の弟子たちは、はじめ「エルサレムを離れず」、聖霊をエルサレムで受けると、ユダヤ、サマリヤの全土に証人として散らされて行くのです。シオン=エルサレムに声をあげて「ユダの町々に告げよ」と命ずるのは、この構造に即しています。
「福音宣教者」については、同じイザヤ書の52章7節にこう言われています。「いかに美しいことか、山々の上に、福音宣教者の足は」。この言葉はパウロによって、ローマ書10章15節に引用されています。救いは、イエスの福音を聞いて信じることによるのです。そして聞くことは、遣わされて宣べ伝える人がなければ成り立ちません。そもそも福音宣教者が立てられて、福音を宣べ伝えてやって来ること自体、神の国が近づいたことの徴です。だから主イエスは、「神の国は近づいた」と告げられたあと、まず福音宣教者として使徒たちをお選びになったのです。そして、「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と仰せになりました(マルコ1章38節)。
二 東京神学大学は「日本基督教団立東京神学大学」と呼ばれ、教団唯一の神学教育機関です。34余りの諸教派が合同した時に、それぞれの教派に属していた神学教育機関もまた一つに合同し、ここに教団立の神学校が誕生しました。英語の正式名は、そのままの訳ではなく、Tokyo Union Theological Seminary と言います。当時神学の最先端を走っていたニューヨークのユニオンの名に倣ったと言われています。そこにも表されているように、日本のプロテスタント教会の諸伝統を統合し、他教派からの献身者もお預かりしています。まずは日本基督教団の教師養成機関ですが、そこにとどまらず広く日本各地またアジアに伝道者を送り出し、それに相応しい正統的な神学の研究をしています。また同時に本学は、キリスト教教育に力を入れ、キリスト教主義学校に多くの聖書科教諭を送り出してきました。キリスト教主義学校の未来を担うことも、本学の使命です。
本学を卒業した者はほぼ全員、任地を与えられて全国各地の諸教会やキリスト教主義学校に遣わされて行きます。「収穫は多いが、働きの手が少ない」(マタイ9章37節)。働き手は、主が召して下さいます(38節)。主に召された職務。そこにわたしたちの存在の喜びがあります。
本学は、博士課程を備えた、キリスト教神学を専門に学ぶ日本全国に唯一の単科大学です。誇りをもって守るべき本学の存在理由であり、使命です。高度な「専門知」集中する学問的質の高さと、その基盤をなす幅広い視野を必要とします。それは世界水準です。本学を卒業すれば、世界水準の神学的素養を身につけているはずです。それは、信徒たちの課題を共に担う牧者としての歩みの中で発揮されます。そのための訓練です。
三 牧者としての召しが、常に問われる学びですが、今はキリスト教神学を深く学んで教会の働きを支えたい者にも門戸を開いています。今は神学研修志望(学部のみ)の道を選び、いざ、人の思いを越えた収穫期が来た時、即座に召しに答える仲間たちの神学研修にも開いている道です。諸教会のご理解とお支えをお願い致します。