「できない」ことに直面し、
苦しみながら「説教」の深みに近づく。
私は神学校入学前にも、また神学生になってからも、教会奉仕で説教をする経験がありましたから、この授業を受ける前までは、内心「けっこう説教は得意なのではないか」と思っていました。しかし、授業でその思いは打ち崩されました……徹底的に。
授業で行う「説教分析」では、他者の説教原稿--カール・バルトのような著名な神学者のものだったりするのですが--を読み4色のマーカーで内容を分類します。1神の御名、2説教者の言葉、3会衆あるいは世間一般の言葉、4聖書からの引用といったように。こうすると、説教者自身も意図していなかった“説教そのものが語る言葉”が浮かび上がってくるのです。授業では自分たちの書いた説教原稿も同様に分析し、皆で討論します。原稿は無記名で誰が書いたかわからないまま配られますので、皆けっこう辛口にコメントします。私も自分の書いた説教が授業で取り上げられ、分析されたときは凹みました。でも、この作業を繰り返すうちに自分の説教の問題点が見えてくるのです。
大学院生になると、授業だけでなく、学内のチャペル礼拝での説教も順番に担当します。他の神学生、先生方の前で御言葉を語るわけですからどうしても緊張します。終わったあとには近藤学長直々に説教についてご指導くださるのでなおさらです。このように、さまざまな場面で鍛えられますね。
ここまで「説教学」を学んで得た一番の収穫は、自分が説教だと思っていたものは説教ではなかったということ。たぶん、卒業までに、いや、一生かかっても説教が「できる」ようにはならないでしょう。でも同時に「説教」のわざの深さに気づくことができました。神さまの恵みに触れることのできる素晴らしい授業です。