東京神学大学では、キャンパスで学ぶ全ての学生が、召命を受け、伝道者になることをめざし、共に切磋琢磨しています。個性あふれる学生たちも、伝道の熱意は同じ。悩みながらも御言葉に向い合う、その素顔を紹介します。
●教会に責任を持つ神学校
−−−数ある神学校の中からなぜ東京神学大学へ?
上山 学術的に高いレベルでアカデミックに学びたかったからです。一方で神学は、趣味や学術的知識を得るためのものではなく、教会に仕えるための学びだと受け止めています。もちろん、神学は学べば学ぶほど楽しいし、自由に議論すべきだとは思いますが、その“自由”は、教会から離れて好き勝手なことを言うのとは違うと思ってきました。アカデミックでありながら、教会に対して責任を持つ。そういう空気を求めていたので、東京神学大学に来て正解でした。
箕口 信仰を与えられたのは、大学院進学を志して貯金をしながらの社会人3年目。貯金も、これからの人生も主のために捧げようと、献身を決意しました。教会の牧師に相談したところ「フルタイムで勉強できるのであれば、東京神学大学がいい」と薦めてくださいました。入学前は真面目な“カタイ”人ばかりかと思っていましたが、実際には個性的で面白い人が多いです。なによりも、同じ志をもった仲間と祈り合えることがうれしいですね。
●プロテスタントの本流を学ぶ
栗山 私は独学で聖書を読み始め、その後教会に行こうと思い立ちました。母に相談したところ、所属するセブンスデーアドベンチスト教団の教会を紹介され、そこで初めて説教による福音に触れて「これだ!」と確信しました。すぐに牧師に相談しましたが、もちろん驚かれました。未受洗者が「一生をかける仕事が見つかった。牧師になる」と言うのですから。でも、理解して受け入れてくださり、神学校を選ぶときも「プロテスタントの中心的な教理を学びたい」という私の希望から、東京神学大学を薦めてくれました。
富山 私の父は本学の卒業生。ですから「伝道者になるなら東神大」と、他の選択肢は考えられませんでした。父には「高校を出たばかりでは、厳しいぞ」と言われました。同世代の学生が少ないこと、また、人生経験が少ない中で神学と向き合う困難さも示唆していたのだと思いますが、それでも喜んでくれました。
●頭に血が上るほどの熱い授業
−−−お勧めの授業を教えてください。
栗山 「組織神学1、3」(正式には1、3はギリシャ数字)です。私のときは近藤先生が担当されていたのですが、先生ご自身が「福音の真理の理解」に集中し、テーマに入りこんで語られます。その熱心さに聞く方も誘いこまれて、授業が終わると集中しすぎて頭に血が上って熱くなるほど。たまに鼻血が出てるんじゃないかと思ったぐらいです(笑)。実際に鼻血を出したことはありませんが、皆に聞いてもやはり、“熱くなる”と言いますね。
富山 1年生は入学して最初の授業が火曜日1時限の「キリスト教通論1」(正式には1はギリシャ数字)です。これは、直接、世界的な神学者から神学の概論を聞くとても豊かな時間。私のときは、前学長の山内眞先生がご担当でしたが、少人数ゆえに丁寧に指導してくださり、楽しい授業でした。他には、2年に1度の開講ですが、学際基礎科目の「キリスト教と芸術・音楽史」も面白く、大好きでした。
●基礎的な学びを経て、深い理解に至る
上山 印象的だったのは、神学の基礎を学ぶ神学通論です。ぼくは神代先生の授業で受けましたが、神代先生はどちらかといえば飄々とした方で、静かに淡々と語られるのですが、聖礼典の話になったとき、一転してかなり熱く話されたことがあります。ふだんクールな先生の、内に秘めた情熱に触れたように思いました。
箕口 英語はもちろんギリシャ語、ヒブル語、ドイツ語など語学に加えて、教会史など暗記や反復学習が必要な科目に多くの人が苦労するのは事実。でも!そこでがんばると、もっと面白いこと、深いことに手が届くという実感があります。大学院ではほとんどの授業が少人数のゼミ形式。課題本を読んでディスカッションするのですが、学部での苦しい学びが基礎となって、さまざまなダイナミックにつながって見えてきます。だからこそ白熱の議論ができますし、自然と頭にも入ってきます。楽しいですよ。
●祈られ、支えられるから力が出る
−−−東神大に入って「自分が変わった」と思うことはありますか?
箕口 よくも悪くも、がんばりすぎなくなりました。以前は体に無理をさせてでも、やるべきことを完璧に終えないと眠れないタイプでした。でも、長く伝道者として勤めようと思ったら体は大事だな、と思うように・・・。今は変な無理をしないで、神さまを信頼し、委ねることを日々思い知らされています。
富山 私は逆です(笑)。面倒くさがりやなのですが、「がんばろう!」と思うようになりました。というのは、神学生は常に祈られているからです。出身教会から、奉仕教会から、家族から、寮では友人から、授業では先生から・・・。知り合いだけではなく、見ず知らずの多くの方々も「東神大のために」と祈っていてくださる。そう思うと怠惰ではいられません。牧師の言葉には責任が伴うものですから、しっかり勉強しないと。
●御言葉が語れなくなった!
上山 変わったことは・・・聖書に聴けなくなった。祈れなくなった。
一同 ・・・!!
上山 以前は、どこか「自分は聖書に聴けるし、御言葉も語れる」という自負がありました。授業でも、効率よくパパっとことは得意でしたし。でも、夏期伝道実習で説教の準備をしていたとき、聖書を開いても文字を読むだけで、心に入ってこない。どうやって御言葉を語るのかもわからない。かといって、それを求める祈りもできないという状況を経験しました。
富山 どうやって乗り越えたんですか?
上山 逃げるわけにもいかないから、とにかくできない自分に集中して、突き詰めて考えました。すると、ふと「自分は出来ないんだ」ということがわかったんです。自分には何もない。空っぽなんだ。このとき初めて、「神さまに委ねる」ということがわかったように思います。そして、空っぽのまま自分から離れて説教を書き、読み返したとき「ああ、ここに福音があるな」と素直に感じました。
栗山 ・・・わかるなぁ。
上山 それまでは「自分が書いた説教」「自分が語る御言葉」と、常に自分主体に考え、説教を読み返しても「まあ、いい出来じゃない」と思うぐらい。自分自身がそこから福音を聴くとは思っていませんでした。でも、違った。説教は自分ではなく、神さまが語ってくださるのだと受け取れるようになったことが、大きな変化です。
●最前線で恵みを受ける神学生生活
栗山 私も、説教を聞いても恵みを受け取れず、聖書を読んでも御言葉が語れず、伝道者としてふさわしいのか悩む期間が、けっこう長く、1年弱続きました。その間に夏期伝道実習があり、壁にぶち当たって、ギリギリまで神さまと対峙して、ようやく「委ねる」ということができた。そしたらすごく楽になったんです。だから、先生方が「夏期伝では失敗してこい」とおっしゃるのもわかりますね。御言葉は、能力で語るものではない。神さまが自分を通して語ってくださり、その恵みを説教者である自分も受ける。それを実感し、改めて牧師の務めの大切さ、面白さに気づきました。
−−−神学生であることの喜びとは?
箕口 以前勤めていたときは、忙しくて聖書がなかなか読めませんでした。それと比べればやらなければいけないこと、向き合わなければいけないことが、聖書だったり神さまに仕えることであるのは神学生の恵み、幸いだなと思います。聖書ばっかり読んでいてもいいし、四六時中神さまに仕えることを考えていられる。それは恵みである一方で、牧会者の、御言葉を取り次ぐものの責任でもあると思います。
富山 私を覚えて祈ってくださる方々がいることに、改めて感謝ですね。東神大のよいところは、先生方が学生一人ひとりに本当によく見てくださること。牧師なるなら、ここです。
栗山 神学生の喜びは、御言葉の恵みを最前線で受け取れることだと思います。誰もが試行錯誤しますが、信仰共同体としての大学で、また教会生活で徐々に整えられていく。自分は寮生ですが、寮の仲間の支えも大きいです。だから、神さまに呼び出されたと思ったら、安心して来てください!
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