神学校で学んだ後の主な進路として、教会に仕える牧師や学校や施設で働く教務教師などがあり、ひとつではありません。いずれも神に仕え、人に仕え、福音を語る“伝道者”、“牧師”であると思います。
私は中学に入学して初めてキリスト教に出会いました。今までの生活になかった価値観を知り「聖書についてもっと知りたい。聖書を伝える人になりたい」と思いました。特に自分がキリスト教と出会った場が学校だったことから、キリスト教主義学校の聖書科の教師として働きたいと思うようになりました。そのため大学卒業後、東京神学大学に進みました。けれども教団の牧師になる訓練が中心で、それが教務教師として働くことに必要か悩みました。そこで一度退学し、学部で学んだICUの大学院で2年間新約聖書学を学びました。ICUでは新約学は批判的文献学、歴史学であり、しかしその成果は教会の学として仕える時に意味があることを教えられました。それならば東京神学大学で牧師になる訓練を受けたいと思いました。
3年間の大学院の学びを終え、短大の宗教主任として赴任し、同時に学校近くの教会に協力牧師として仕えることになりました。。授業で出会う若い人たちが「どう生きるべきか」を真摯に悩み、求めていることは伝わってきましたが、彼女たちの宗教に対する考え方は様々でした。学生たちに福音を届けるには、聖書を良く知っていること、神の前に立つひとりの人間として学生に対峙することが必要でした。
4年たつうちにもっと聖書について学ぶ必要があると思いました。機会を与えられてアメリカに留学しました。その後、思いがけないことに東京神学大学の教員となるよう声をかけていただきました。
いまは神学生に授業を行っていますが、私自身の課題はある意味で短大で教えていた頃と同じです。それは聖書を知るためにあらゆる努力をすること。そしてその御言葉をひとりの人間として受け止め証しすることです。例えば「新約聖書釈義」という講義では、聖書をギリシャ語で読み、単語、文法を理解し、意味を厳密にとらえ、さらに、これまでの研究史を調べどのような理解がされてきたかを学びます。それは骨の折れる作業です。しかし、どんなに苦労した「釈義」でも、そのままでは「説教」にはなりません。聖書の理解が生きた言葉になるためには、伝道者がその言葉に生かされていることです。これは伝道者自身が教会の2000年の歴史の上に生き、また世界中のキリスト者に連なるものとして生き、葛藤しながら獲得していくものだと思います。その姿勢を神学生と共に学びたいと思います。
教務教師も牧師も、同じ伝道者です。東神大は牧師養成を第一目標にしています。けれども教務教師をめざす方々にも豊かな訓練の場を提供しています。ですから、伝道者として召しを受けた多くの方々に本学で学んでいただきたいと思います。