大住: お二人は東神大を卒業され、牧師として教会に仕えられているわけですが、いつごろ、どのようにして信仰に入り、伝道者として献身する決意をされたのでしょうか。
道家: 私は名古屋の出身なんてすが、最初、水戸の茨城大学人文学部で心理学を学びました。信仰に入ったのは20歳のころで、洗礼は水戸教会で受けました。そして卒業を前にして、当時。はやり始めていた牧会心理学を勉強しようと京都の同志社大学に願書を出しました。ところが、何か不手際があったのか、神の摂理だったのか、届いていないと言われたのです。それで1年棒に振って、名古屋に戻っていろいろ考えながら、親が通っていた金城教会に行くようになりました。そこで牧師に勧められ、献身に至ったということです。しかし教会にお仕えするという思いはあまりなく、牧師になってからも心理学を勉強できるからと言われて神学校に入ったのです。振り返ってみると、非常に邪道な入り方ですね。
小椋: 私は、2002年のイースターに洗礼を受け、それから数年して東京神学大学に入りました。家族はクリスチャンではありませんでしたが、母と祖母は横浜英和の出身で、私自身も名古屋のキリスト教を基盤とする学校に行きました。そこでキリスト教と出会ったのです。献身の決意は、洗礼を受けたのとほぼ同時にしていました。私たちのために命を捨ててくださった方がいるということを受け入れた時、私自身もその方のために生きたいと思ったのです。
大住: お二人とも、動機はともかく、信仰に入られてから比較的短い期間で献身を決意なされたようですね。
では、いま牧師としての1週間は、どのような生活をなされているのかご紹介いただけますか。
道家: 日曜日は礼拝の奉仕をして、それから教会の長老会や、週によっては委員会などに出ます。また、西東京教区が主体となって立ち上げた郊外伝道のための立川伝道所の責任者をしていますので、毎日曜日、そこの夕礼拝に奉仕をしています。教団には、月水金の週3日は顔を出すことになっていますが、教会の集会や教区の仕事があればそちらを優先しています。火曜日と木曜日は教会にいて牧会や教会の事務で、祈祷会は木曜日に行い、火曜日には月に1回聖書会があるなど、1週間全部埋まっていますが、大変とか忙しいとかあまり感じないですね。
小椋: 私は、まず日曜日は礼拝のご奉仕、説教は毎週あります。体がもちませんので、月曜日は丸1日休むようにしているのですが、地区の行事が月曜日に入ることがあって、なかなか難しいのが実情です。火曜日は、祈祷会や説教の準備を始めます。そして水曜日が教会の祈祷会、木・金は母校の中学校で聖書科の授業を受け持ち、土曜日は説教の準備です。昨年からは、伝道所の親教会である中京教会で、授業の前後に祈祷会や週報印刷などの奉仕をしています。
大住: 小椋先生は、牧師になるということに対してどのようなイメージをお持ちでしたか。
小椋: もっと教会につきっきりになると思ってました。こんなにいろいろとすることがあるとは思ってもいなかったのです。赴任して2年目から、地区や教区の委員をしています。今は、地区の婦人会に属していて、教区の伝道部と教区通信の委員でもあり、教区通信の委員会は割と頻繁に集まりがあります。せめて一つの委員会だけならそれに集中できるんですが、そういう訳にもいかないのが現状です。教会も、事務の仕事がとても多いので、錯覚してしまうことがあります。というのも、私はもともと勤めをしていたので、パソコンに向かって何か事務仕事をしていると、牧師としてすごく務めを果たしているという気になってしまうんです。実はそれほど大したことはしていないと、反省的に思っています。そんなことより、ほんとうは受洗者が一人でも多く生み出される努力をしなければいけないのですが。神学校を卒業する前は、事務の仕事だとかを全部ではないにしろ、いろいろ担ってくださる方がいる教会に自分は仕えるだろうという勝手なイメージを持っていたんですが、今は、現実にはその大半を私が担っています。本当はそういう奉仕者をもっと育てていかなければいけないのだろうとは思います。
大住: そういう奉仕者を育てるというのが、牧師の仕事の一つとして大事なことなのですね。道家先生はいかがですか。
道家: やはり臨床心理学から入っていったので、実際に悩む人とどうやって一緒に歩んでいけるかということを思っていました。ただ最終的に気づいたのは、教会は病気の人を分類してその人と関わるということが主ではないなということです。よく[健やか]ということが言われますけど、教会は神によってつくられた人間の健やかな生き方をやはり御言葉で説いていくしかない。最終的には御言葉で秩序つけられた人間の健やかさに導いていかなければいけない。そこまで本気でつきあうのが牧師だと思うんですけども、それは相当大変なことですね。だからそういう意味では黙ってその人に寄り添うという、イエスさまがエマオで同伴されたような、ああゆうイメージを持っています。イエスさまに倣っていくというイメージをずっと追い求めています。
大住: 神学生時代の教会生活で、あるいは神学校での学びを含めてもいいでしょうが、一番何を学びましたか。
小椋: いろんなものごとを神学的な筋道で考えることですね。例えば、教会というのはほんとうにいろんなことを決めなければいけなくて、それこそ愛餐会でお茶を出すのか紅茶を出すのかということから始まって、牧師である私に最終決定を委ねられた時に、よりみんなが喜んで奉仕できるような方向を選ばなければならない。例えば紅茶のほうがお茶より倍金額がかかるとしても、そちらの方がみんなが喜んで奉仕ができるんだったらそちらを選んだ方がいいという場合もあるし、逆もあります。その時にどうやって考えるかという考え方を神学校で教わったかなと思います。
大住: それは小さなことのようで、結構大事なことですね。教会形成というのは、いろいろと難しい。こうしなければいけないということではなくて、たとえばみんなでやることになっているのであれば、簡単なことでも自分一人でしてしまうのではなく、みんなが集まるのを待つということが大事なのでしょう。道家先生はいかがですか。
道家: 神学校に行くということは、4年間、あるいは6年間、その空気に触れるということだと思います。とにかく神学的にものごとを考えよう、どんなつまらないことでも、主が主語だ、神が主語だという考え方を、なんとなく、ある意味では徹底的に、講義や神学生同士の交わりや生活の中で身につけることが、牧会に出てから生きていくに違いありません。だから、神学校にいる、その空気を吸うということはものすごく大事なことだと思います。それは、自己啓発とかほかのいろいろな言葉に置き換えられるかもしれませんが、結局、神学校、特に東京神学大学に流れている空気というのは、生活面まで徹底して流れている神を第一として組み立てるという考え方なんでしょうね。
小椋: それから、東京神学大学は召命共同体だという意識がはっきりしてますね。私は、献身というのは一人ひとりの決断でやることだと思っていましたが、その共同体に入ることによって自分も強められるし、悩んだり、苦しんだりしても、友人と共に祈り合い、お互いに支え合えるということです。私がこの東神大の教職セミナーに毎年参加するのも、やはりもう一度それを反芻したい、思い起こして元気をもらいたいということなのかもしれません。卒業間際は、早く伝道地に赴きたいというワクワク感と神学校の空気をもう少し味わっていたいという思いのせめぎ合いでした。でも、自分に繰り返し戒めていたのは、神学校はやはり学校であって教会ではないということです。だから、ここに浸っていつまでも喜んでいるようではいけないと。
大住: 牧師になるのであれば神学校に行かなければならないんだろうとは思っても、そこでどういうことを学ぶのか、それでどのような牧師になれるのかということはあまりわからないだろうと思います。お二人は、東神大に入ってとまどった授業というのはありますか。
小椋: みんなとまどいましたけど、忘れもしないのは、入学していちばん最初の授業が教会史だったことです。先生が早口で初代の教会からキリスト教公認の時代まで一気に話されて、同級生はみんな頭の中が[?]という感じになりました。もうちょっとゆっくり進むのかと思っていました。
道家: 私は、組織神学ですね。これはなんなんだろうと思いました。でも、今では一番大事なものだと考えています。それは、組織神学を学ぶことで、教会を秩序づけ、教会の枠をしっかりと持つことができるからです。東神大というのはやはり、教会に仕えるための聖書神学や歴史神学などを学ぶところで、それを束ねるのが組織神学と思います。教義学とか弁証学とか倫理学とか、その区別さえ解らない時でも、組織神学の授業を受けていくうちに、教会と信仰はこういうふうに考えていくんだ、ということが身についていったんだと思います。それは、大学だけで終わらない作業で、牧師になってからも続けていることです。
小椋: 神学に限らず学問一般がそうなのかもしれませんね。学問というのは積み重ねられた過去の研究との対話を進めていく、その仕方を学ぶための授業だったんだなと思います。組織神学の授業などは、牧師になって様々な課題に直面している今受けてみたいという思いがあります。
大住: 広大な世界に出会わされてしまって呆然としているのが、東神大の授業なのかもしれないですね。
道家: そうですね。東神大というのは地下水脈を掘ってしまったのでしょう。掘ったあとどうするのか、作業ばかりだから悩むかもしれませんが、でも、それが福音の本質なんてすね。
小椋: 私は、初めてギリシャ語を習って原典で聖書を読んだ時のあの感動は忘れられません。それまでは新共同訳という窓から見た景色しか知らなかったのですが、この窓の向こうにこんなに広大な景色があったのかという。学生が陥りやすいのが、釈義、ギリシャ語で読む楽しさにはまってしまうことです。学部4年で夏期伝道に行くのに説教を書かなくてはいけないのに、ギリシャ語を調べるのが楽しくて、それ以上先に進めない。でも、その楽しい経験を知っていてよかったと思います。掘れば掘るほど宝が出てくるということですね。