自分のやりたいことを仕事にできる。それが人の生き方の理想であるとするのなら、牧師として召されることほどそれに近いものはありません。神さまを知った喜びを、大好きなイエス様を多くの大に伝えたい!という思いと日々の生活が一つとなるのですから。神さまには喜んでいただいて、イエス様を信じる喜びを教会に集う大たちと分かち合える。こんな素敵な生き方はないはずです。
いや、しかしそんな単純な話じゃないんだ、献身するというのはもっと重たいことではないかと考えているあなた。その通りです。あなたには別の夢があったかも知れません。あなたには自分のこれまでの時も宝も差し出して取り組んできたものがあるかも知れません。心に掛かる家族のことを思い起こしていることもあるかも知れません。牧師になることは、勢いや衝動、情熱だけで飛び込めるというのではありません。一所懸命悩み、考え、祈ってなお、神さまからの召命の声が聞こえてくる。だからこの一文をご覧になっているのだと思います。献身するためにこの背中を押してくれるものはないか、あるいは断念するきっかけはないかと。
すでに伝道者として若干年を経た者として、一つだけあなたに確認していただきたいことがあります。あなたは祈ってもらっていますか。あなたの献身の志のために、祈って支えてくれる方はありますか。あなたの名前を毎日口にして祈る方のあることを覚えて、あなたは悩んでいるのでしょうか。あなたの献身のために祈り参与してくださる方を、何人思い起こすことができるでしょう。
献身するというのは、神さまとあなただけの問題ではないのです。あなたが伝道者とされることを待っている人があります。あなたの口を通してイエス様と出会いたいと願っている人があります。それはまだ見ぬ誰かの話のことではありません。今、あなたのために祈っている人たちのこと。そういう人を思い起こすことができないのでしたら、まず教会で祈ってもらいましょう。どうぞ、このわたしのために祈ってくださいと言える。それが献身の始まりです。
牧師としての人生は、祈られることなしに送ることはできません。自分の情熱や志なんてちっぽけなものです。自分の祈りもまことに頼りない。神の憐れみと、教会の皆さんの祈りに支えられることなしに、一日として立つことはできません。それは牧師・伝道者という務めの厳しさですけれど、そこに何にも替え難い喜びであるのです。 あなたの悩み、あなたの決意は祈りの中にありますか?