「はっきり言っておく、あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締
められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネによる福音書二一章18節)
。
今だから、自覚的に思い起こせるのかもしれませんが、献身して、牧師として教会に仕えるとは、私にとって、言わば行きたくないところに連れて行かれるようなものでした。心の内に道が示されて
いるにもかかわらず、一生懸命に、その道以外の道を、自分の行きたい道を、進もうとする自分がい
て、それは当初、当然のように、心の中の優勢を占めていました。相応しくない理由は、幾らでも挙げることができました。なぜ、献身などということを思いついたのだろうと、一時の気の迷いとして処理する道を、探し求めていました。それは、ほとんど無意識のうちに行なわれていました。大学で学んでい
たことを続けて学びたい。曲がりなりにもキリス
ト者として学びたい。それが、「私の」行きたい道でした。その道は、それなりに、キリスト者としての筋を通せる道であるようにも思えたので、神学校
への入学を志願しない、絶好の大義名分であるか
のように思えました。これなら神さまも大目に見
てくれるだろう。そういう甘えがあったと、今にしてみれば思います。
しかし、生きて働かれる神さまは、甘くありま
せんでした。行きたい道が切り開かれ、進学が許可されてもなお、合格した喜びや、自分の進みたい道が見えてきたという爽快感が、全く感じられないのです。行きたい道が閉ざされて、「お前はこっちに行け」と言われるような展開は想定していましたが、肉の目には道が開かれて見えるのに、その道は閉じているかのような、無視できない、何ともいえない違和感が、自分の中に居座っているのです。
思えば、私は受洗の時から、こういう煮え切ら
ない逡巡と迷いに右往左往してきました。そのよ
うな私は、今でも我が内に健在だと言わざるを得
ません。牧師となり、主の前に決断をする機会を
与えられる度に、これでよいのだろうか、という思いが募ります。教会という場では、人間の見通し
によって成算がありそうだからと、物事が前に進
むわけではない。このことを主は今もって、私に教えてくださっている。そう信じて、「これでよいのでしょうか」。「最善をなしたまえ」。祈りながら歩んでいます。
振り返れば、神学生の頃というのは、自分の頭で
考えた末の判断が、いかにあてにならないかを、身
をもって知らされていたように思います。私は臆病者で、自分の頭で考えないと、行動になかなか移れないところがあります。しかし、主は臆病者に、臆病を克服したから、決断力が身についたから、仕えるに相応しいのではないことを、教えてくださっていたのです。だから自分というものをへこまされる経験を、神学生としてした時に、それこそが、主の
愛に基づく鍛錬なのだと、思い起こしていただければ嬉しく思います。
今もって、「行きたくないところ」に連れて行かれます。引き受けたくない原稿や講演の依頼にた
じろぎながら、主がせよとおっしゃることのみを理由に、おどおどしながら引き受ける決断に、引っ張り出されています。しかし、主の御名はほむべきかな、自分が好き好んで引き受けたかどうかとは関
係なく、連れていかれたところにおいて、よき主人を持つ幸いな僕であることを知らされています。「行きたくないところが」が、「行かなきゃよかったところ」だったことは、未だ皆無です。安心して、「行きたくないところに連れて行かれる」献身者となっていただけたらと思います。
「まさか! この私が献身だなんて。そんなこと絶対ありえない!」東京神学大学に入学する一年ほど前から、私はこの言葉を心で叫び続けました。幼い頃から音楽一筋で育ち、専門分野での仕事も軌道に乗りつつあったその頃、私の心に献身への道が示されていたのです。献身への道が示される度に、私はそれを強く否定していましたが、礼拝や祈祷会で語られる神さまの言葉は、私の心をますます献身へと向かせるのでした。召命に応対する大きな切っ掛けは、祖母の死という出来事にありました。キリスト者であった祖母の晩年は、体の自由が奪われて教会へ通うことが困難になりました。しかし、神さまを
求めて祈り、そして聖書を読む姿は喜びに満たされているように見受けられました。私はそのような祖母の姿から「神さまの言葉にしかこの世を生き抜く支えはない!」と実感したのです。祖母の死を前に悲しくてただ泣いていた私ですが、その悲しみの中で神さまが私に出会ってくださり、絶望的に感じられた人間の死それさえも救いの中に入れられていることを知らされました。神さまの栄光によって私たちの死はもはや絶望ではなく希望となる。この救いをまだ知らない方に伝えたいと、私は招きに応じて献身しました。
しかし、その歩みは決して神さまの前で誇れるものではありません。むしろ私は自分の無力さ、自分の汚さ、自分の浅はかさに直面し、神学校で学ぶものとして全く相応しくないと、うなだれる日があります。しかしその度に、いかに自分の力に依り頼んでいるかを思わされています。弱い時こそ強く働いて下さる神さまに、すべてを依り頼むことでしか献身の道は歩めないからです。そして「献身者として私ほど相応しくない者はいない」という苦しみの中で聞こえる神さまの赦しと招きの御声によって、神さまと教会にお仕えする喜びが与えられること。これ以上の喜びは、私の人生において他にありませんでした。
私たちは、神さまの御言葉をまだ知らされていない方たちに、救いの喜びを告げなくてはなりません。その
ための必要な備えはすべて神さまがしてくださいます。すべてを神さまにお委ねすることが難しく、すべてを
神さまにお捧げすることが困難な私たちですが、すでに神さまが私たち
に献身の道を備えてくださっています!
あなたもこ自分の前に神さまが備えてくださった献身の招きに応じませんか?御心ならばすでに道は献身へと続いているのですから。
「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」
(エフェソの信徒への手紙一章11節)