「主よ、どうしてですか?」。伝道者として召されるきっかけは、この問いからでした。神学校に入る前、助産師として医療の現場で働いていた私は、多くの新しい命と出会い、また婦人科も併設していた病棟ということもあり、最後の看取りにも立ち会うような、そんな環境に身を置いていました。極端な場合には、数時間の差で最期の看取りと誕生に関わりました。おのずと、いのちとは、死とは、生きるとは、といった問いが自分の中にも湧き上がり、周りからの「なぜ?」という投げかけにも対峙せざるを得ませんでした。しかしその一方で技能を磨き、自らの力で道を切り開いていくことにやりがいを見い出し、私は神無しでも生きていけるのではないか、そんな的外れで見当違いな思いを抱いていた時でもありました。おそらくその頃が最も神から遠く離れていた時でしょう。けれども、幾つもの問いに対して試行錯誤を繰り返すものの、自分自身では答えを見つけられず、いつしか「どうしてですか」と問うことから逃げるようになりました。いのちの誕生においても、悲嘆や痛みと向き合わなければならない人がいます。そうした死が現実のものとして差し迫っている人から問われることを恐れ、心を閉じることで逃げようとする私がいたのです。ところが不思議なことに、私が問うことを止めた時、問われていることに気づいたのです。その時初めて聞こえてくるものに気づかされたのです。創世記第3章には、アダムとその妻が神の顔を避けて園の木の間に隠れている時、主なる神から「どこにいるのか」と呼ばれたことが記されていますが、私もまた「どこにいるのか」「何をしているのか」と問われていたのです。問うことで自らの在り様を、立ち位置を確かなものにしようとしていた私でしたが、呼びかけをもって問われる方に見い出されたのです。私にとって献身とは、呼ばれ、問われていることへの気づきと、その問いに対する応答として与えられた結果でした。
もちろん、神学校に入っても問うことを止めたわけではありません。牧師として遣わされたところで問う必要がなくなったこともありません。それどころか以前にも増して、祈りにおいて、切羽詰った思いから「主よ」と呼びかける毎日です。省みれば、欠けの多い自分であるが故に、「どうしてですか」と問わざるを得ないことばかりです。けれどもその問いかけは不安や恐れで終わることはなく、私に呼びかけ、問いかけて下さる方がおられる故に確かな平安に支えられています。だからこそ静まって主に聞くことの出来る幸いがあります。これは何にもまさる慰めです。伝道の現場で、主の招き、問いかけに支えられて歩むことの出来る幸いを感謝しています。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネによる福音書6:27)
この言葉は私が大学時代、就職活動を目の前にしていた時期に、ある牧師から示された御言葉です。お金のためでもない、自分のやりがいのためでもない、何のためにこれから何十年と働くのだろうと悩んでいた時に、この言葉によって、神様のために生き・働く、教会に仕えるためにこの身を捧げよう、との思いが与えられました。
しかしその後も、神様に身を委ねきれない自分自身の惨めさに、「わたしは相応しくありません」「なぜ、このわたしなのですか…」と嘆いてばかりいました。しかし、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカによる福音書9:62)という御言葉に立ちかえり、「あなたたちはどの民よりも貧弱であった」(申命記6:7)のにもかかわらず選び、愛して下さる神様に、「どうかこの身を用いて下さい」と祈り、生涯を神様にお捧げする決断が与えられました。
神学生になった今でも、その歩みは決して順風満帆なものではありません。牧師という務めは「わたしにはとても担いきれない」とつくづく思わされる毎日です。己の無力さを知り、小ささを実感させられます。しかしその度に、私たちに先だって働き、この私を赦し、支え、用いて下さる神様がいかに恵み深い、確かな方であるかを身をもって知るのです。何よりもイエス・キリストが共に担って下さることを知る。気が付けば強くなっている。神様の恵みを確信するからです。そして、赦しの共同体である教会に生き生きと仕え、御言葉と共に歩む喜びが増し加えられていく。
ある牧師が「キリスト者は皆、伝道献身者である」と言われました。教会に連なる人は皆、それぞれの仕方で献身しています。その中でも今、教会は牧師としての働き手を必要としています。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(ローマの信徒への手紙10:14)という状況が切実になってきています。ご一緒に、神様を誇る人生へと歩み出そうではありませんか。神様の栄光のみが顕されるために、この体をお捧げしましょう!福音の御言葉をこの国の一人一人に届ける幸いに、共にあずかることができるよう心から願っています!