僭越ですが、現場からの声を聞いてください。
私は、教会の牧師という立場からキリスト教(主義)学校の教員という立場になって六年目となる者です。
教会は、キリストによる救いを求めて自ら足を運んで来た人々の集まりで、そこには神に向き合う真剣さと緊張感があります。牧師自身、聖書の御言との格闘によって日々自分の信仰が問われます。そして牧師の務めには、神の教会を牧することを託されているのですから、それなりの責任が伴うことは言うまでもありません。
学校は、そこに多くの学生、職員、つまり神に命を与えられて生きる人々が居るにも関わらず、ほとんどの人々が、神に向き合うことに関心を持ち取り組む姿勢ではありません。何をどう教え、伝えるのか、戸惑いと模索の日々が続きます。焦燥感と空虚感は募るばかりですし、また現代の若者達の内面の空洞化、キリスト教学校の抱える問題の深さを前に、立ちすくむ毎日です。
このようなことを言いますと「献身のすすめ」どころか、献身を止めるすすめのように聞こえてしまうでしょうか。しかし、決して誤解しないでください。このようであるからこそ「献身のすすめ」を述べさせていただきたいのです。
キリストの救いに与った全ての者に、まず求められていることは、主の福音を世界に伝えることです。私達は、この土の器を用いて神が福音の光を輝かせてくださることを信じる者であります。もちろんそれは私達の生活の全ての場において実践されることですから、誰もが牧師になることが求められているわけではありません。が、悲惨な罪に覆われたこの世界にあって、主の教会は、福音を伝えることを急務としていることも事実です。そのために献身する人を神は求めておられるのです。
「献身」は決断も歩みも容易な事ではありません。しかしどの現場であっても、その中心におられるのはキリストをとおして働かれる神です。神が働き、神が求めておられるのです。神が求められるならば、献身し、仕える者に、神が力を与え、支えられないはずはありません。たとえ力弱く、不可能と思えることであっても、私達を生かすのは、キリストの十字架と復活によって、あらゆる不可能を可能にしてくださる神なのです。
私達の拙い信仰をも信じてくださり、福音の宣教を託そうと、神が求めておられるのです。その声に応える人を待っておられるのです。
|